チョコ坊、じじニャンを忍ぶ思いで体験記!
2018年 04月 21日
(=^. .^=)ミャー
今日は
広島のじじニャンの一周忌でした。
だから昨日の夜から
パパにゃんだけ里帰り、
チョコ坊はママにゃんと
お留守番でつニャン。
広島の
じじにゃん・ばばにゃんは
原爆被爆手帳を持つ
広島原爆体験者で
奇跡の生還者だと思いまつ。
2人ともその話を滅多に
人にはしにゃいんでつが、
1度聞いたら忘れられない
お話だったので
じじニャンの追悼として
書いておくことにしたでつニャン!!
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当時じじにゃんは
学徒動員で
広島市の海沿いにある
三菱重工の工場に勤務してました。
じじニャンのお家は
三次市だったので
芸備線という電車で
約1時間半かけて広島駅まで出て、
そこから工場までは徒歩。
毎日、片道2時間半から3時間
かかる通勤でした。
原爆が投下されたとき
多くの工員さんたちは
「アメリカさんが飛行機から
何か落としよったで〜!!」
と言いながら
持ち場を離れ我先にと
外に見に行くなかで
じじニャンは
工場の奥の方で
各家庭から集められてきた
ナベやヤカンなんかを溶かすための
大きな炉の火の番をしていて
持ち場を離れることが
出来きなかったんだって。
すぐに投下された爆弾が爆発して
外に見に行った工員さんは
2度と戻って来れなくなりました。
警報が鳴り響く中
丁度昼どきだった大きな講堂の
列をなす机の上には
昼食が配膳されたそのままで
見上げると
天井がぽっかりと
無くなっていたそうな...
じじにゃんは
一緒に逃げた工員さんと2人で
しばらく
草原に隠れてい様子を見、
その後、
工員さんは市内に戻っていき
じじにゃんはお家のある三次まで
歩いて帰ったそうです。
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あまり多くは語らないから
実情はわからないけど
逃げるときの工場は中も外も
地獄絵図のようだったんじゃ?
と思うんです。
市内に戻った工員さんは
1年後に亡くなったとか..。
じじにゃんは
わりと早くにおうちのある
三次に向かったので
原爆症にならずに
済んだのだと思いました。
それでも
白血球数はときどき
上がったり下がったりしたそうで
その度に
「治療法が無いならええわ」と言って
病院を出たこともあったとか...。
そんな体験者が
どんどんいなくなりますが...
それでも
こんな悲惨な思いを2度と
誰もがしないようにしたいヨネ!!
(●´人`●)
そんな体験を
心の奥に封じて生きた
じじにゃんのその後の人生は
税務署勤務に始まり
退職後
税理士事務所を開業。
書道、囲碁、日本画に興じ
ユーモアにも長けた
ダンディな紳士でした♪
たくさん描いていましたが
晩年はこれくらいの大きさの絵を
好んで描いていました。
日本画教室の展示会にて
この頃に
アルツハイマー初期と診断され
その後、絵は描かなくなりました。
囲碁は最後まで
楽しまれていたようです♪
お薬の効きがよかったのか
荒ぶることもなく最後まで穏やかで
いつも笑顔のじじニャンでした。
(=^・ω・^=)v
チョコ坊は広島帰省で
3度じじニャンにあったでつ。
「クロ、かっこいいね!」
て褒めらりましたニャン♪
優しかったじじニャンのために
チョコ坊もしばし
〜 黙祷ニャ!! 〜
じじニャ〜ン、
お空からチョコ坊の腹おどり見て
笑っててニャ〜ン♪
今日も見に来てくださった皆さま
ありがとう!!
Peace be with youヽ(*´∪`*)ノ" ♪
Have a happy day full of smiles!
(*´∪`*) 応援よろしくです〜♪♪
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by hillfigure
| 2018-04-21 22:03
| チョコ坊日記